大学生タレントの通信簿の補足

大学生タレントの通信簿

>>学業に全力を尽くせば(すなわち、学業に頑張っているといういいイメージを得たいと思うならば)肝心の仕事そのものができないのだから、そんなもの得ても無駄である。思い切り矛盾している。

補足

人材の優秀さとは

だがこうなると話は別である。、単位習得は片手間でも余裕でこなせる人間は、芸能と学業の二束のわらじを履ける。つまり、学業をクリアするのに多くのエネルギーと時間の配分を割かずにすむ、要領のいい人材だ。・・・彼(女)はいわゆる、世間でいう優秀な人材ということになる。当然、そういった人材は、芸能の仕事をせず、フルタイムで学業をこなせば、学問の分野で、もっとスゴイことができるかもしれぬ、ポテンシャルの高い人間であろう。


結局、人材が優秀かどうかというのは、対象となる事案そのものの優劣と加えて、いかに(対象とは無縁の)他に配分できる余裕をひねり出すことができるか・・ということであろう。たとえば会社は当人の仕事ぶりだけ見ていればよいが、個人の処世術においては、仕事のみに、すべてのエネルギーや時間を傾けるわけには行かない。地域活動、子育てなど、他もこともやらなくてはいけないのは当たり前である。


また、ある限られた分野で同じ能力を発揮した人間が二人いたとする。が、一人は片手間で、一人は人生の全力を尽くしてそのレベルだとしたら・・限られたパラメーターでは同等だろうが、たとえば片手間の人間が、その余力を他のことに使って、他の分野で偉大な貢献をしたとしたら、前者の方がポテンシャルがあり、優秀だといえる。たとえ、実際に功績を残せなかったとしても、その可能性だけはあるからして。結果はさておき、後者の”人生の全力”氏は、その可能性すらない。はなっから道は閉ざされている。よって、優秀だとはいえない。経済原則にのっとった、その人の優秀さとはそういうことである。



・・・となると、学生自分、成績自慢をし合って、自分が負けたときに、勝った奴に対してよく言う”フン、あれだけやりゃ、俺だって、誰だって・・・たといバカだとしても、あのくらいの点は取れるさ。だけど俺は、やれるけどあえてやらなかったんだ。俺には、やるべきことが、他にいっぱいあるんだから”という捨て台詞、これはある面正しいといえる。決して、負け惜しみとはいえないのである。


話は戻るが、とにかく、教育のし甲斐がある、優秀な人間=ポテンシャルの高い人間とは、投資効率を考えた場合、割のいい人間、つまり、教育コストの投入が少ない割に、より大きなリターンが返ってきそうな人材・・ということだろう。(っていうか、人材に限らず、何でもそうなんだが。当たり前すぎ)

アイドルの進学って・・

となると、もしかして、学業で芳しい成績を収められなかったアイドル連中って、”芳しい人たち”に比べて、学業に対してのポテンシャルが低かったなどとは、とてもじゃないがいえないのではないだろうか。つまり、それほどバカだとはいえないのではないか?

何しろ、あれほど忙しかったのだから、勉強時間は取れなかったはず。教育コストの投入は少ないだろう・・・・、それでいて、人並みの成績を取れたのなら、返ってくるリターンは割高であり、余程の悧巧者だろう。学業に対するポテンシャルは、そこらへんの並みの人材より、かなりあると考えても、おかしいこととはいえないだろう。前述した、教育コストの投資効率を考えれば、なかなか割に合う人材かもしれない。

とすると、大学側のアイドル連中を選抜する判断基準は、不透明だなんだと世論で言われることは別として、あながち間違いとはいえまい。確かに、忙しい(=売れている)アイドルであればあるほど、優遇されている。投資効率の面からみれば、確かに合っている。

何しろ、アイドルが、売れることすなわち忙しくなることと、学業に割ける時間そのものが少なくなることの因果関係は、簡単に証明できる。テレビなどで、公衆の面前に姿さらしてるのだから・・どう考えても、勉強しようがないではないか、”アリバイ”はばっちりではないか!、となると、たとえ成績が並であろうと、少ない勉強時間(少ない教育コストの投入)で、多くのことを覚えてしまう(割高なリターンが返ってくる)、投資効率のいい人間、つまり先に言ったポテンシャルのある(=優秀な)人間ということになる。


ということで”こいつ、不正工作=影でこそこそ隠れて勉強して、自分のポテンシャル高く見せかけようと””アリバイ工作””してないな。公明正大ではないか、ようし、投資効率よさそうだ。入れてやろう”という大学側の判断も、あながち間違っているとはいえないのではないだろうか。同程度でも、全力を尽くしたバカよりも、片手間の悧巧者を選ぶ・・何が悪いのであろうか。当然ではないか。まだまだ伸びる可能性がある、若い人材であるから、なおさらである。そしてそれがたといもくろみどおりに行かなかったとしても、だからなんだというのだろう。周囲の不利益って、あるのか?※1


まだまだ伸びる可能性・・・たとえばの話

たとえの話として、ある陸上競技の名伯楽などは、足の形を見て、伸びる選手かそうでないか、即座にわかるという。当然、選手の現時点でのタイムを度外視して、採用の基準をそこに置く。

たとえばの話、もし、この陸上コーチに対して、この選抜基準は、個人の恣意的な判断によるところが多く、不透明であるし、皆の不満も大きい。よって、誰もが不満を漏らさない、公平な、タイムのみでの選抜に切り替えよ!と上に命令されたら、彼は、すんなりそれを飲むことができるだろうか?それとも、即座に辞表をたたきつけるだろうか・・・っていうか、そもそも、周囲から不満があがらない選抜方法が、最も優れた選抜方法だといえるのだろうか?専門家達は、本当は正しくない方法だと、わかっている。だが、処世術として、そういった方法をとらざるを得ないのか?


この、タイムによる選抜だと、記録はいいのだが、教育し甲斐のない(投資効率の悪い)、伸び悩みしそうな奴でも、ルール上、採用せざるを得ない。その反対も同様。現時点のタイムは悪いのだが、大きな成長を見込める、つまり教育のし甲斐がある、投資効率のよい”ダイヤの原石”を、落とさざるをえない。


また、これに似たような、もうひとつのたとえとして、仕事をしていれば誰でもわかることとは思うが、新人で欲しい人材というのは、現時点で仕事やらせてみて、実際にできたかどうかの厳密な差、ましてや、以前それに多くの時間を割いたかどうかはまるで問題ではなく、今は出来ようが出来まいが、とにかく飲み込みのよさそうな者である。いわゆる”伸びる人材”””筋がいい奴”ということである。当然、採用側が、それを人材の選抜基準としても、何の問題もない。落ちた奴も文句は言わないだろう。

一般社会では正しいことでも・・・

だが、一般社会では正しいとされる、これらのこと(※2)でも、こと学業で選抜する分野に限っては、とたんに正しくないことになってしまうのは、どういうわけだ?こんなことは、仕事をちょっとでもしたことのある人間にとってみれば、とっさに理解できることだろうに、どうして、学者や文化人やマスコミなど、何かと大衆を誘導したがる連中は、まるきり理解できてないのであろうか?奴らは世間を知らないのか?それとも、理解してにはしてるんだが、何かと不都合だから、世間に向けては言わないのか?不都合とは?もしかして商売のためか?世間知らずに耳障りのいいことを言って、迎合して金を稼ぎたいという、商魂ゆえなのか?


前に言った学生の負け惜しみにしろ、ああいった考え方は、まあ、子供にそう考えられたら都合の悪い大人連中は、否定するだろうから・・・マスコミ連中、つまり、権力側も、同じようなものなのかもしれない。とにかく我が子とおなじように、大衆にそう言う風に考えられたら、何かと問題があるのだろう。



※1)不利益って、あるのか?・・・たとえ、それで失敗したとしても、戦争や公害じゃありもしないのだから、イメージの多少の悪化、世論の非難など、被害は、おもに、あくまで当事者個人の中だけに限定されている。マアかわりに落ちた人が一人いるってことはいるが。。。しかし、それを同じようなことを、大人社会相手にいちいち言い出してたら、キリがない。詳しくは、過去記事を読んでいただくとして・・・・ひとついいたいことは、”君達、第一、そんなことまで深く気にしてたら、オトナの世界で生きていけないよ”・・・ということである。


勿論、若い時分に、一切考えないことが正しいということではなく、内容が、正しいか正しくないかという問題であって、理想とも別の存在である。いわゆる現実問題であって、あくまで正誤の問題ということであるからだ


※2一般社会では正しいとされる、これらのこと・・・こういったことがいえてしまう理由として、経済学の初歩である効用関数とかコストパフォーマンスというものが、世の中のほとんどの事柄について当てはまってしまうからであろう。まさに、世の中の道理であるといえる。・・若者の頃に、どんなに大人たちに違うことを説教されても、自分自身が大人になってしまうと、これに気がついてしまう・・・・ただし”愛”は例外らしい※3。







※3)”愛”は例外・・・・これもsiro氏の受け売り。