読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

麻生○晶

週刊誌などで、テレビに詳しい文化人のコメントを掲載するときに必ず名前に上がってくる、麻生○晶という人物がいるが、フラッシュの写写丸と同様、実際は=本誌記者のコメント と言うことで、実際は架空の人物らしい。
麻生○晶という人物そのものは、実在している。だが、その人物が、実際にかかれてあるようなコメントをしたか、あるいは本当にそう思っているのか、あるいは記者がいちいち電話してその人物にたずねたのかというと、そういうわけではなく、記者が、自分(あるいは自社)の意見ではなく、だれか権威ある人物の意見であるとした方が都合がいいときに、この人物の名前をかたって、自分の意見を書いているにすぎない。
自分や、自社に都合のいい、ある特定の組織の意向を汲んだ偏向記事を書くときには、本当は自分が書いていながら、自由にその人の名前をつかっていいという、業界の了承があるのだ、楽な、何かと便利な存在というわけである。
しかし、その人物が、全くバーチャルな人物であれば、イザヤ・ベンダサンのようにいずれは露見して、信頼性が損なわれる。だから、適当な、それらしき実在の人物を担ぎ出して、その人物が評論家であるとして、この人が言った・・・としておいた方が何かと都合がいいわけである。
実際、この人物はかなり昔に東大を卒業して以降、評論活動は数えるほどで、ほとんど評論活動は行っていない。仮に、早くに本格的な評論を引退して、テレビという世俗的な分野に移行しただけで、実際はかなりキレル人物だった・・・としても、経歴が本当ならば、今は、フレキシブルな評論活動などとても出来そうもない、かなり高齢の人物である。
実際は、名前を貸しているだけの、今は全く活動を行っていない、著名な活動実績もほとんど無い、勿論テレビ評論など一切していない、とうの昔に引退した人物であろう。だれかが、大手事務所に都合のいいコメントをするときに、記者本人の意向なのにも関わらず、それを隠したいときに重宝する、半ば架空の文化人のペンネームとして都合のいい人物として担ぎ出した、でっち上げた人物。それが麻生○晶である。
もちろん本人も、”自分の名義で何を言ってもかまわない。自分はすべての意見について事後承諾する”・・・・といった、全権委任を承諾している。もちろん、たまには”アレはないんじゃないか・・もっとこうして欲しい・・といった”スーパーバイザー的な参考意見もはさむ。だが大筋では、自分の名前で書かれた記事、コメントの内容に関しては、全権を委任していることにはかわりはない。
だが、麻生が一人の人間でなく、実質、大勢の人間の合同ペンネームであるからして、当然、一貫性の無い、たとえばあちらで意見をいい、またあちらでは今までとは真逆の意見を言ったり・・・というケースがありうる。これでは困る。
だから、業界では”麻生○晶のキャラクター設定集”という、この人物の持つ性格、経歴、好み、思考の傾向、行動パターンなど、すべて網羅した、ドラマ、映画などのキャラクター設定と全く同じような、詳細に設定された統一基準を作り、、この人の記名で原稿を書くときは、これにのっとった内容の原稿を書くことを、不文律としてさだめている。
まあ、某大手芸能事務所の意向に、完璧に沿ったものであるから、また、記者がこの人の名を使いたい時というのは、たいてい、そういった大手の意向を汲んだ意見を書きたいときであるからして、逸脱はほとんどありはしないが・・・・

昔、椎名○子といった、実在してはいるが、名前だけの、半ばでっち上げゴーストライト集団がいたり、イザヤ・ベンダサンなどのように、某在日外国人の名を語り、日本人としては言いづらい日本批評を書いて、日本人に対して説得力をもたせたり、秋○康や○ーイングといった人物や組織が、よくこういった手を昔からやっていたことから考えてみても、こういう手法は、業界にとって、いろいろと都合がいいのかもしれない。シェイクスピアなども、こういった、”ある特定の意向を主張したいがために汲まれた合同プロジェクト”・・という説が絶えないが、やはり歴史的にみて人間のやることはいつも同じようなことかと思われる。